大阪コピーライターズ・クラブ 趣意

コピーライターの社会的地位を高めるため、
「OCC」は生まれました。

創設のころのOCC

「Copywriter’s Age 」20号(OCC創設30周年記念号)より

OCC結成までの事情は、1958年(昭和33年)発行のOCC機関誌「顔」創刊号に掲載されている大島忠男さんの文章がよく伝えているので、そのまま抜粋します。

(以下、大島忠男さんの文章より)

ささやかな歴史だが、いまのうちに誰かが書き留めておかないと忘れられてしまう。というわけでもないが、ご存知ない人も多いと思うので、メモを頼りにOCCの「有史以前」を書いておく。

昭和29年の5月頃、藤沢の宣伝部で葦原治と、たぶん早川良雄が毎日新聞社から賞をもらったので、その祝賀会の話をしていたように思うが、その時、商業美術家諸先生にくらべて、文案家の「ナンたる不甲斐なさヨ」という痛憤?が、「やろう!」というキッカケの一つになった。(宇野浩二流でいえば「と思う」)

まず、木庭光(住友銀行)と西田茂数(当時は塩野義)にワタリをつけ、10月23日に前記三名と碇(電通)と小生が初会合。30年1月にまた集まり、この時には、豊田正夫(住友化学)と西本宣恵(武田薬品)らが参加して、下相談がほぼまとまった形となった。

それから木庭、葦原、西田が発起人となり、連絡事務所を小生気付として呼びかけ、2月26日に第一回会合。この日には高橋昇六(新東宝)、谷口匡彦(ミノルタ)、山本修(三和銀行)が出席した。それからはコーヒー代を持ち寄って月一回雑談会をやり、機の熟すのを待った。

だいたい会というものは、まとまるようでいて出来たトタンに消えてしまうというのが多いから無埋をしないという建前で、つまり一歩前進二歩後退という方式をとった。

9月の例会に宣伝会議の久保田孝来阪。ゲストに佐野英夫が出て座談会。ここで気焔をあげたり、同月26日、田辺四緑の出版記念会を開いている。

この前後に、松本善之助、中村豊(フリー)、佐藤富三(三和銀行)、平丼康裕(近鉄)といったベテラン組が加わり、メエゾンBXで数次会合、クラブの正式結成とかためて行き、12月の発会式にこぎつけたのである。

(敬称略失礼ご免)